2017年11月15日
静岡県民森林円卓会議 スピーチ内容@きこりフェス
先日のきこりフェスでは、県とのカップリング企画で「県民森林円卓会議」が行われたのですが、そこで冒頭の基調スピーチにて喋らせていただいた内容を今回の投稿とさせていただこうと思います。
話の構成としましては、前段に現状の森に対する問題や置かれている状況について皆様の認識をアップデートする下地。
後半に現場のきこりとしての私見を述べさせていただきました。
それでは、始めます。
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皆さんこんにちは。本日はこんな山の中の芝川まで足を運んで下さり有難うございます。 やはり屋外は気持ちいいですね。
ご覧のようにここ芝川はいわゆる田舎らしい山ばかりの風景で、街中と比べると、空気の純度や瑞々しさ、鳥や虫の声の量なんかに違いがあると思います。
一見平和そうな風景ですが、実はこの山林、沢山の問題を抱えています。その幾つかを紹介しますので、今、山がどうなっているのか、皆様の認識をアップデートして頂ければと思います。
では始めます。現在問題になっているのは日本の山の4割を占めるスギ・ヒノキの山です。人工林と呼ばれる人が植えて育てた山は最後の一本を伐り終え、再び植えるまで人の手入れを必要とします。手入れとは、草刈りだったり枝打ちだったり、成長段階に応じて行う間伐と言った作業のことなのですが、山がその機能を十分発揮するにはこれらの人の手による働きかけが不可欠ですが、その働きかけが足りていないと言うのが一番大きな山林の問題という事になります。
なぜ間伐が必要なのか知っている人はいますか? 木々がギチギチに混み合っている状態だと、木の栄養となる太陽光、そして土の養分を奪い合う形になります。限られた養分を多数で奪い合う状態となります。結果、充分に成長できない細い木が一斉に並ぶ様相となります。
逆に、間伐により適切な本数に調整された山では栄養を悠々と分け合え、充分な栄養で木々はすくすくと健やかに育ちます。残った太陽光は地面に届き、スギ・ヒノキ以外の生態系を豊かにする下草や灌木にも行き渡ります。間伐により太陽光や土の養分を適切に分配する事は残った木々を立派に育てると言う事のみならず、その立派な木々が深く根を張れることから、大雨、台風時に保水力を飛躍的に増したり、土壌を強く掴む事から土砂災害を防いでくれたりします。
間伐を行うことは、山の資産的価値、災害防止としての価値、また風致的価値を高め、いい事だらけです。
しかし、間伐が行われず、人から放置され荒れ果てている山林ばかりになっていると言うのが現在山林が抱える大きな問題の一つです。
なぜ放置されているか?
理由は幾つかあるのですが、最も大きな問題は、外国から入ってくる材との価格差から起こった日本のスギ・ヒノキの価格の暴落です。参考までに昭和50年台のピーク時から物価スライドを無視しても1/4、
グラム当たりの単価で割り出すと大根よりも安いという売値です。
国産材は皆さんがイメージしているよりずっと安く取引されています。そんな価格では、山から木を切り出して市場まで運んでも利益どころか、マイナスにしかなりません。山は人にとってもう価値のない場所になってしまいました。
山を管理してきた僕らの様な林業従事者や細々と自分の裏山を手入れして来たおじちゃん、おばちゃん、里山を守ってきた地域の人々が山から去って行きました。
この結果、何が起こったのか? 山の荒廃は土砂災害の頻発を招き、山里と人との労働を通じての豊穣な関わりは薄れ、せっかく植えた若木は鹿や猪に根こそぎ荒らされ、昔から隔てられていた人と動物の境界を無視し畑や田んぼに押し寄せる猪、猿によって農作物にも被害が及んでいます。獣害とまで呼ばれるその問題に対し人にはもう爆発的な野生生物の増加に打つ手はなくなりつつあります。
仕事の少ない山間地域で山もダメになり、畑やたんぼも作れない状況は国の根幹である第一次産業を、換言すれば山村地区で成立する貴重な収入源を断たれることを意味します。すると増々人は田舎を去り都会へと向かい、残された田舎は過疎化のスピードを増して行きます。
「文化は多様であるべきだ」と僕は常日頃思っています。
都会には都会の文化があり、田舎には田舎らしい文化や豊かさがあります。
しかし田舎は疲弊しています。それは農林水産業の疲弊とパラレルな関係を示します。山が健康でイキイキしていればそこでミネラルを得た水が田畑を潤し、その綺麗な水は川魚を、そして海で待つ生物達に豊かな栄養を届けます。水は水蒸気となり空に昇り、雨となり再び山に降り注ぎます。
やはり山です!安心して体に入れたい空気や水はMade in山なのです。
もう一回言います、山は大切です。更に言えば山と人との関わりは大切です。
では、その山の健康をどう保っていけばいいのか?間伐という作業を通じ、山の健康を担い続ける僕らきこりがどうしたらこの田舎で末永く生活していけるのか?僕は毎日現場でそんなことを考えています。
この解決策をお集まりの皆さんであーだこーだと明るく前向きに話し合おうというのがこの円卓会議の目的です。
ここまでで現在、窮状に置かれている林業や地方の現状が整理できた所で、僕からの提言をさせて頂き、次のパネラーの方々へ、そして皆様からの発言へとバトンタッチして参ります。私からの提言にあと5分お時間を下さい。
現場のきこりの立場から、少し専門的な行政制度と政策について言及したいと思います。他のパネラーの方はもっと身近で柔らかな話となるはずですので、少し難しく専門的な提言となることをお許し下さい。
ざっくり言うと、今の林業は材価の低迷から、国や県からの補助を受け何とか息をしている産業に成り果てています。
その補助金の要件や使い勝手の良し悪しに疑問を持つ事が多々あります。つまり、制度・政策が現場と合っていないのです。踊る大捜査線やホンダの社長を例に出すまでもなく、現場にいる人間が最も生の情報や感覚を持ち実情に近い判断を下せることは世の理です。
行政が「これで行く!」と作った制度が50年後100年後歴史的に検証される時絶対に正しかったとは言えないでしょうし、責任の所在も誰にあるのか不明です。山は50年100年の長き時をかけ熟成されます。
今行政が推し進める「大量にとにかくたくさんの材を富士に出来た製材会社に納品し木材自給率を50%に」と言う流れが強く、その製材会社納品することを条件に補助が付くという制度があります。「早く大量に」を是とするならば、処理能力が高い高性能な機械を導入し、山から切り出す木々に対しても収奪的にならざるを得ません。機械中心に回す大規模&量で勝負的な林業スタイルに合わせなくてはなりません。そのシステムの中で働く僕ら現場人はコストとして計算され、生産過程における一部分と成り下がります。正直気持ち良くはありません。山も人も材木を生産する無機質な工場ではありません。今の潮流は少なくとも僕が生涯を賭してやりたいと思う林業ではありません。山の時間に合わせたもう少し無理のないスローで互恵的な関係でいたい。山から得られる人生の学びを感じる暇もなく、とにかくスピードと量の風潮に僕は今後も乗らないと思います。
話を帰結点に向け絞っていきます。
林業スタイルも多様であるべきです。大量生産型も必要でしょうし、弊社の様なスロースタイルも、おじいちゃんが軽トラで小さく営むスタイルもあっていいと思います。しかし、今の静岡の林政は大量生産型への肩入れがあまりに強いというのが現場の立場からの危惧です。
大量生産型はいつか立ち行かなくなります。なぜなら土地は有限ですし、山の時間軸と合っていないからです。そうなった時、大量生産型の林業会社しか残っていなかったらどうなるのでしょうか?僕らきこりは山の微生物。微生物がいなくなった宿主はどうなるでしょうか? 自然界には多種多様なバクテリアが存在します。経済的合理性や効率で1種だけを残すような愚は犯さしはしません。多様性を保存していくのが自然の理であり、人間界においては行政の舵取りなのだと思います。その舵取りを誤らない為に現場の声に耳を傾けて欲しいと思っています。
これで話はまとめです。色々と申しましたが提言は2つです。
1点目、協調して地元の山を守りたいと言う目標を一つにする行政と現場のきこりがその目的を果たせる様に、現場の意見を聴き取るチャネルを作って欲しいという事。それがバランスの良い政策に繋がりひいては山にもきこりにも地域社会にもHappyな状態が作れると思います。
2点目、お集まりの皆様に。どうぞ山とフレンドリーな関係を築いて行って下さい。国産の間伐材にどうか目を向けて下さい。美味しいジビエ料理をたまには食べて下さい。使う事、頂く事で山はその輝きを取り戻します。以上です。ご清聴有難うございました。
----- 以 上 -----
関連記事です→『発酵と腐敗、そしてバクテリア』
とよ拝